史跡 久米官衙遺跡群 くめかんがいせきぐん IN LAN Web Site!
 
史跡指定までの道のり
長隆寺跡の調査
 来住廃寺の発掘調査は、昭和42年に大山正風氏によって長隆寺跡として第1次調査が行われた後、昭和52年から翌年にかけて第2次、第3次の調査が松山市教育委員会によって実施され、法隆寺式伽藍配置を持つ白鳳期の古代寺院跡として、昭和54年に国の史跡指定をうけました。
来住廃寺の調査
 その後も来住廃寺の発掘調査は続きましたが、周辺からは、7世紀前半頃にさかのぼる役所の政庁(政治を行う機関)や、税を納める倉庫が建ち並ぶ正倉院、その他の役所の建物等の発見が相次ぎました。7世紀中頃には、これらの施設を約110m四方の柵や溝で囲い、計画的に配置していた様子もわかり、7世紀末に来住廃寺が造営される以前から、周囲には広大な役所街が整備されていたことがわかったのです。
  特に、遺跡群の南端には溝と2重の柱列で取り囲んだ『回廊状遺構』と呼んでいる施設は、他の官衙遺跡では確認されたことのない特殊な施設として注目されました。
  このように、来住廃寺の調査は全国的に貴重な役所跡の調査へと移り変わったのです。
国指定史跡久米官衙遺跡群
 これらの調査成果をうけて、これまでに国の史跡に指定されていた来住廃寺跡(約1万平方メートル)に加えて、久米官衙(かんが:古代の役所)遺跡(3ケ所、計約2万平方メートル)が、平成15年8月に新たに追加指定されました。指定を受けたのは、国指定史跡来住廃寺跡に隣接する回廊状遺構の全域とその北側の一部、正倉院南部と政庁の一部の3ケ所です。天皇中心の国家体制(律令体制)の整備がはじまった7世紀前半から地方支配の確立に至るまでの地方における状況を知ることができる、全国的にも珍しい遺跡として高く評価された結果です。
  以後、来住廃寺跡に久米官衙遺跡を加えた範囲を、『国指定史跡久米官衙遺跡群(久米官衙遺跡、来住廃寺跡)』と呼ぶことになりました。
  なお、以前から史跡指定をされていた来住廃寺の周辺については、17年度から、整備に向けた資料収集のため発掘調査を行っています。

最新の調査と今後の課題
 今後の史跡整備の方針を決めるため平成17年に来住廃寺32次調査として約40年振りに謎の基壇部分を全面発掘調査しました。これによって、これまで五重の塔と考えられていた基壇は礎石の並び方から庇付きの金堂跡と判明しました。
  金堂とは御本尊を安置する本堂のことで、規模は南北8.9m、東西10.8m、基壇の大きさは南北11m、東西13m、で、基壇の一部からは瓦を重ねた基壇化粧と見られるものも残っていました。
  出土した瓦は法隆寺の瓦に似たものは少なく未発見の瓦が2種類発見されました。
  また基壇の東面からは江戸時代に造られたと考えられる長隆寺の土塀がそのままの状態で埋まっていました。これもきわめて珍しい発見です。
 平成19年度からは、講堂(僧侶が経を唱えたり、講義を受けた建物)があったと考えられている地点で、発掘調査が行われています。

     政庁跡
     正倉院跡
     回廊状遺構
     来住廃寺跡 
     講堂推定地
 調査の概要
  来住廃寺32次調査
  久米高畑遺跡65次調査
 博物館めぐり

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松山市文化財調査報告書121 来住・久米地区の遺跡Z 〜平成17年度国庫補助市内遺跡発掘調査事業〜 2008 松山市教育委員会/財団法人松山市生涯学習振興財団/埋蔵文化財センター が出版されました。

来住廃寺35次調査で、奈良時代のものと見られる陶製の「瓦塔(がとう)」の一部が発見されました。瓦塔の出土は県内初。

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